逍遊版・勉強八策

効率よく勉強するための「勉強八策」

 「勉強八策」などという大層なものを掲げましたが、要は「無理なことをしないで楽しもうじゃないか」という考え方です。言い換えると、「効率よく勉強するための原則」と言うことができます。良い機会ですので、この場でそれぞれの項目について解説してみようと思います。

一、自分が今から何をすべきか、まずその全体像を把握しよう。地図のない冒険ほど危ないものはない。

 勉強でも仕事でもそうですが、全体像が見えないとゴールが見えないため、今自分が何をやっているのか見失いがちになります。自分がこれから取り組む内容がどの程度の範囲に及ぶのか最初に見極めた上で個々の項目に取り組めば、全体の中の一部分がよく見え、その作業の最終目標も把握できるようになるため、現在進行中の作業の重要性がわかるようになります。同時に、自分が取り組んでいるものごとの価値も明確に感じられるようになります。
 このように、全体と個々との関係を把握しておくことは、作業内容の理解に繋がります。これは勉強だけでなく、あらゆることに当てはまります。極力、全体像を把握してから、個々の勉強に取り組みたいものです。

二、何のためにそれをするのか、常に問いかけよう。真の意味を探ることこそ学びの第一歩だ。

 前の項目とも関わりますが、目的を見失うと、今取り組んでいることの意味も見失うことになりかねません。また、今取り組んでいることが、本当の目的に適っているのかもわからなくなります。万一、本当の目的に適っていないのであれば、別の方法を模索する必要がありますが、それすらできなくなります。目的を常に検討して肝に銘じながら、本当に必要なことのみを取捨選択して実践したいところです。
 人はともすれば、習慣として同じことを繰り返すのを好みます。ある作業(たとえば単語を憶えるなど)を習慣にするというのは状況によっては良いことですが、本来の目的に適っていないことを習慣化して毎日やったりすると、結局何の役にも立たないということになりかねません。学校の宿題などについても、こなしていれば能力が上がるなどとつい信じて、睡眠時間を切り詰めて律儀にやっている生徒がいますが、ノルマでやる勉強は「終わった」という達成感と書き残した現物以外何も残りません。こういう無駄なことは、あえてやめる勇気が欲しい。本当に有意義なことに時間を費やすべきです。そのためには、真の目的について常に検討していかなければなりません。

三、楽しんで取り組めるようにするために最善を尽くそう。楽しんでやれないことに向上は望めない。

 どんな分野でもそうですが、楽しんで取り組めないことは上達しません。どんな分野でも一流になるためには、10,000時間の修練が必要だと言われますが、楽しくもないことに、10,000時間費やせる人が一体世界に何人いるでしょうか。一流の人に才能があるとしたら、その才能は「その分野を好きになり、それをやるのが楽しいと思える能力」と言っても過言ではないでしょう。
 勉強について言えば、楽しくない勉強をやらされるのは苦痛以外の何ものでもありません。苦痛なことをひたすら我慢して続けるという努力をするのではなく、少し発想を変えて、その科目の面白いところを見つける、あるいは好きになるために全力をかたむけるようにしたらどうでしょうか。どうしても好きになれないようであれば、おそらくその科目で結果を残すことは不可能でしょう。これは断言できます。その科目が入試に不要な進学先を選ぶようにした方が良いでしょう。

四、常に最善手について検討しよう。反省のないところに向上はない。

 目的を達成するためには、何がベストなのか常に再検討しよう、というのがこの項の主旨です。勉強の方法についても、本当にそれで良いのかいつも見直し反省したいところです。ある方法について、思い込み(あるいは信仰みたいなもの)からつい最上であると考えてしまうことは、どんな分野でもありえます。たとえ最善の方法であっても、改善の余地があるということもよくあります。改善の余地についても常に念頭に置いておけば、新しい情報も吸収しやすくなるというものです。

五、失敗を恐れてはいけない。失敗で失うものより得るものの方がはるかに多い。

 これは、私を含め、ほとんどの人に当てはまることなのですが、失敗を恐れて結局何もしなかったということはよくあります。今、年を重ねて感じるのは、失敗を恐れて何もしなかったことほど後悔することはないということです。やってみて失敗したことは、それほど後悔はないものです。
 勉強についても同様で、教室で失敗をして人に笑われたりするのは結構な屈辱であるため、失敗してしまうより黙っておこうとつい考えがちです。ですが、恥をかくとそのシーンが記憶に残りやすいため、なかなか憶えられないような事項がそのためにかえって記憶できたということは意外に多いものです。長い目で見ると、むしろこうやって恥をかくほうが、自分のためになっているというわけです。
 思い切ってやってみて失敗したらやり直したら良い……というくらいに余裕を持って毎日を送っていれば、結果的に大きな成果が得られるのではないかと思います。

六、人はそれぞれ違うということを前提にしよう。成果を測るときは、過去の自分と比較すべし。

 これもついやってしまうことなのですが、自分を他人と比べてしまうということは、非常に多いものです。他人と比べて自分はなぜこう駄目なんだなどと考えてしまう、自分の無力感を感じてしまうということはよくあります。しかし少し考えて見ればわかりますが、人でも動物でも個体ごとに差異があるのは当然で、それを比べてみてもしようがないわけです。差異があることを前提として生きていくしかないのです。差異はそもそも個性ではありませんか。差異を大切にしないでどうしますか。
 もし、自分の努力の成果、あるいは成長の跡を知りたいと考えるのであれば、他人と比較するのではなく、過去の自分と比較するのが筋ではないでしょうか。他人はもともと寄って立つ位置が違うため、比較してもあまり意味がありません。他人に対して妙な劣等感を持ったりしてもあまり良いことはないのです。それに、自分が劣等感を持っている当の他人の方が自分に対して劣等感を持っているなどということさえ実際には良くあります。隣の芝生は青く見えるものです。周りを過剰に気にせず、自分の道を進めば良いのです。

七、ひたすら我慢して頑張ることは避けよう。勉強は修行ではない。

 我慢して努力を続ければ結果が出る……と考えるのは、一種の信仰だと私は思います。困難なことをひたすら我慢してやり続けて結果が出るということも、場合によっては起こり得るかも知れませんが、確かなのは、こういう方法が非常に効率の悪いやりかただということです。他の方法でやれば、もっと大きな進歩が望めるかも知れません。あえて苦難な道を選んで修行しようという奇特な人でない限り、そんな方法おやめなさいと私は言います。もう少し力を抜いて、楽しくできる方法を考えるくらいの余裕がなければ、人生、大変窮屈になります。

八、疑問が湧いたらそれを大切にしよう。真の学びは疑問から始まる。

 真剣に何かに取り組んでいると必ず疑問が湧いてきます。これはごく自然なことです。勉強でもそうです。そもそも学問は、疑問から始まっています。物理学も哲学も数学もすべて世界に対する疑問から生じています。勉強をしていて疑問を感じたら、それを大切にしてもらいたいと思います。その疑問に大きな真理が含まれているかも知れません。その疑問を、先生や周りの人に質問してみても良いでしょう。答えの出ない疑問も当然存在しますが、すぐに答えが出ないからといって、その疑問を捨ててしまうのももったいない話です。ずっと頭の隅に置いておけば、今後何かの折に解決するかも知れません。私にも過去そういうことがありました。それは大変すばらしいことです。
 中には「そんな質問をするな」と逆ギレする大人もいるかも知れませんが、その場合は、決して質問をしたあなたが悪いのではなく、そんなことを言う人が理不尽なのだと割り切りましょう。
 いずれにしろ、疑問をないがしろにするという行為は、学問と真っ向から対立する行動です。言われたことを物わかり良く憶えてしまうような人は、要領は良いかも知れませんが、学問には向いていません。