すべては生徒の成長のために
学校教育を見直す
学校教育の意義についてあらためて考える
現代の日本では、子どもたちに対して、学校現場で教育が行われます。小学校、中学校までは義務教育ということで、子どもたちの保護者には教育を受けさせる義務が課せられています。これは、識字能力や計算能力が現代社会で必須であるためであり、同時に、より良い社会を実現するための条件である「市民」を育成するためというのがその名分になっています。もちろん、それは確かに重要なことで、教育を受けられない子どもたちが現実に世界のあちこちに存在し、それが社会的な問題の要因になっていることを思えば、義務教育制度の存在が大切であることには、誰にも異論がないところです。
もっとも、現在小中学校で実施されている教育が本来の目的に適っているかについては、大いに疑問があります。たとえば、小学校の低学年に英語を教えることが本当に必要なのか、中学校から英語を学びはじめた世代の私としては、大いに疑問に感じます。英語の勉強よりも日本語の習得の方に時間を割くべきでは?と感じてしまうのです。
まずは根源的な問いから
こういう時代の今だからこそ、教育の本当の意味についてすべての日本国民に問い直す必要があるのではないでしょうか。
つまり、私たちに必要な学びとは一体なんだろうか、今、学校で学んでいる学習内容は、私たちが生きる上で本当に必要なことなのだろうか、という根本的な問いです。
小学校教育
小学校教育については、多くの人がその必要性について賛同するのではないでしょうか。読み書きや計算ができなければ社会で生きていく上で困ってしまう。これは火を見るより明らかです。実際、何らかの理由で小学校教育を受けられなかった人々が今でも存在しており、ある人はテレビの番組で、広報の文章を読むことができないだけでなく、自分の名前を漢字で書くことができないために、日常的に大変な不便を感じていると語っていました(その方は現在夜間中学校で勉強していました)。そういうことを考えると、国語学習と算数学習が必須なのは同意できるでしょう。もちろん内容について疑問が残るにしてもです。また社会のシステムを学ぶ、自然の原理を知るという意味で、社会科、理科が必要なのも頷けます。家庭科なども重要です。音楽や美術、体育などは比較的軽視されがちですが、近年のアメリカ社会でこういった教科が著しく減らされ問題になっている(マイナス面がいろいろと出てきている)ことを考えると、その必要性は決してないがしろにすることができないところです。
ただ、小学校教育の中でも高学年になると、社会生活における必然性がにわかに感じられないような事項が出てきます。たとえばツルカメ算が日常生活で必要になるのかと言われれば、答えはノーです。ほとんどの人は生涯で試験以外の目的でツルカメ算を使うことは、おそらくないでしょう。しかしそれでも、中学校での教育課程の導入部分だと考えれば、こういうものも合点が行きます。同じ意味で、高学年で実施する英語についても、ある程度は存在価値があると言えるでしょう。
中学校教育
一方、中学校での学習過程は、生活に必要最低限の事項ではありません。ですが、知っておくと生活が豊かになるという事項や、後の就業の際に必要になる専門知識に直結する事項が出てくるため、決して無駄とは言えないものです。ただし、実践的な科目ばかりではない上、人によっては、学校卒業後、一生触れることのないような知識も相当量あるため、生徒の側では「何のために〈 * 〉を勉強しなければならないのだ」(*には、英語、数学、理科など適当な言葉が入ります)というような疑問が出てきます。これは至極当然です。あえて断定しますが、実際のところ、必ずしもすべての教科に精通する必要がないのが中学校の教育課程ということになります。だからやりたくなければやらなくても一生困らない可能性がある(大いに困る可能性もありますが)、それが中学の勉強です。高校進学に必要だからというのも一つの理由として成り立ちますが、こういう考え方は実に消極的かつ打算的で、あまり気持ちの良いものではありませんね。
高校教育
高校教育については、義務教育でないということもあり、専門性が高くなります。言ってみれば、ほとんどが、大学教育の一般教養課程あるいは専門教育課程の入門編というもので、中には、大学教育レベルに匹敵するような、相当高いレベルの勉強をすることさえあります。言って見れば専門研究への入口であるため、その専門課程に進まない人にとっては、ほとんど一生役に立たないような科目ばかりです。そのため、ほとんどの人々が、大学入試を終えて就職を果たすと、就職分野に関わっていない科目のほとんどを忘れてしまいます。たとえば、ほとんどの人は高等数学を使うことは一生ないため、微分法や積分法についてすっかり忘れてしまいます。そんなものです。それを考えると、高校の教育課程も、大学進学に必要だからやらなければならないという考え方が広く行き渡るのも致し方ないところです。ただ、先ほども言ったように、こういう考え方は実に消極的で、気持ちの良いものではありません。何より後ろ向きすぎます。
その先を考えたい
中学・高校の勉強が入試のためということになれば、取り組む生徒にとっては、砂を噛むような虚しい勉強にならざるを得ないでしょう。「入試が人生にとって何よりも大切」と信じていれば、それなりに頑張る動機になるかも知れませんが、そんな命題に説得力があるとは正直なところあまり思えません。実際には、大人にも子供にもそう信じている人がいて、そういう人々は入試に非常に積極的だという現実はありますが、私などは、そういう人を前にすると、もう少し視野を広く持った方が良いんじゃないのといつも感じます。
そうは言うものの、一生懸命無理して勉強しなければ行きたい高校、大学に行けないじゃないか、とあるいは言われるかも知れません。それはそうかもしれませんが、自分の経験から言うと、「一生懸命無理して勉強」したところでそれほど成果が望めるとは思えないのです。無理して我慢して何かをするというのは、実に効率の悪い方法なのではないでしょうか。
ではどうすれば
ではどうすれば良いのでしょうか。ここからがいよいよ本題です。
要するに、無理してやっても長続きしないのが人間である、ということを受け入れていこうじゃないのということです。無理なものは無理!と開き直るのです。
どういう分野にも当てはまりますが、成果を出すためには、無理にやるんじゃなく、それを楽しんでやらなければなりません。周囲を見回せば、さまざまな分野で非常な才能を発揮している人がいるでしょう。音楽でもスポーツでも、あるいは学問でも良いですが、「天才」などと呼ばれる人たちがいます。彼らに共通しているのは、その分野を楽しんでいるということです。才能というものが実際に存在するのであれば、それはある分野に対する嗜好、つまりどれだけ楽しめるかという能力と言えるんじゃないでしょうか。ですから、何かに秀でたいと思うのであれば、それを好きになって、楽しめるようにならなければなりません。
「〈 * 〉なんか目にするのもイヤなのに好きになれるわけないじゃん」(*には、英語、数学、理科など適当な言葉が入ります)と考える人もいると思いますが、それは端的に言ってしまえば、あなたがまだ本当の面白さを知らないだけとも言えます。どのような学問分野でも、それを面白いと思って追究してきた人々が過去大勢いるわけですから、必ず面白いと感じられる部分があるはずです。
ですから、苦手な分野を克服したいと思うのであれば、まず、その分野で面白いと感じられる部分を見つけることから始めてみませんか……ということになります。「一生懸命無理して我慢しながら取り組む」んではなく、まず、その科目を好きになるために最大の努力を払う、これが最初のステップです。面白さを少しでも感じられればめっけもんだと思って、さらに面白さを探求していくこと、それこそ向上への第一歩です。面白いと感じられさえしたら、無理しないでも続けることができます。
私の考える塾
関心を呼び起こすことの重要性
以上のような理由から、指導者にもっとも必要なものは、面白いと感じられることを生徒に伝えていくことだと私は考えます。言い換えると「学問への刺激」ということになります。特に高校生くらいの年代は、こういった刺激でさまざまな分野への関心が大いに呼び覚まされる時期です。そのため、指導者が面白いと感じられるものを、生徒たちにどんどん伝えていかなければなりません。簡単には伝わらないかも知れませんが、そうすることが指導者の義務だと考えます。
雰囲気も大切
そのためにも、生徒と指導者の間で楽しさを共有できる雰囲気が必要で、それを作り出すのが、授業を展開する人の義務です。したがって、叱責や強制は極力避けるべきです。
聞くところによると、怒る先生、怒鳴る先生、生徒を侮辱する先生など、その教員としての資質に疑問を感じるような先生も学校現場、あるいは塾にいまだにいるようです。私自身も、そういう先生がかつて学校にいて、いつも身をすくめながら時間が過ぎるのをひたすら待つと言う不快な経験をしてきました。教員のこういった行為は明らかに、今で言う「パワーハラスメント」に当たります。それに、今まで述べた方向性とまったく逆の方向性であることがわかると思います。
勉強、学問する場では、教える側と教わる側は、立場の違いや年齢の違いがあっても、ある意味、人対人として対等に接しなければならないと考えます。お互いの存在を尊重すべきであり、それは生徒側にももちろん求められます。年長、年少に関係なく、非礼に対しては断固とした立場で臨まれるべきです。非礼な態度を取る生徒がいれば、厳重に抗議すべきです。そしてそうすることは、その生徒の成長にも繋がります。
塾の存在価値
今、世間には、非常に数多くの学習塾が存在し活況を呈している状況ですが、さまざまな形態のものがあって、中には本当にそれで教育と言えるのかと思えるようなものもあります。もちろん致し方ない部分もあるんですが、流れ作業のように展開される授業とか、自習させるだけで「刺激」を与えることのない塾とか、そういうものを目にすると、少し悲しい気持ちになります。学習塾の存在価値ということを考えると、学校にない付加価値を提供することが義務であり、単に学校の補習にとどまらないだけの志が、塾の側にも必要なんじゃないかと感じます。このことは常に自身の肝に銘じておき、自戒にしたいとも考えています。
勉強八策
以上のような考え方が当塾のバックボーンになります。それをまとめたものが、「勉強八策」です。別に個人的に坂本龍馬が好きなわけではないのですが、語呂が良いのでこういう名称にしました(こういうものは語呂が大切なんです)。個々の条項については、折に触れてまた説明していきたいと考えています。
勉強八策
- 自分が今から何をすべきか、まずその全体像を把握しよう。地図のない冒険ほど危ないものはない。
- 何のためにそれをするのか、常に問いかけよう。真の意味を探ることこそ学びの第一歩だ。
- 楽しんで取り組めるようにするために最善を尽くそう。楽しんでやれないことに向上は望めない。
- 常に最善手について検討しよう。反省のないところに向上はない。
- 失敗を恐れてはいけない。失敗で失うものより得るものの方がはるかに多い。
- 人はそれぞれ違うということを前提にしよう。成果を測るときは、過去の自分と比較すべし。
- ひたすら我慢して頑張ることは避けよう。勉強は修行ではない。
- 疑問が湧いたらそれを大切にしよう。真の学びは疑問から始まる。
逍遊ゼミナール