つれなかりせばなかなかに
文豪谷崎の「妻譲渡事件」の真相

瀬戸内寂聴著
中公文庫

良心を疑ってしまう出版物

 文豪、谷崎潤一郎が、最初の妻、千代夫人を佐藤春夫に譲ったいわゆる「妻譲渡事件」を扱ったノンフィクション。

 谷崎潤一郎は、千代夫人の妹のせい子を気に入り、自ら引き取って自分好みの女に育て上げようとしたが(このあたり『痴人の愛』とシンクロする)、一方で千代夫人にはつらく当たり、DVを繰り返したという。谷崎の家に出入りしていた佐藤春夫は、それに同情したせいかわからないが、千代夫人と恋愛関係になった。谷崎自身は、彼らの恋愛関係を知っていて、それどころかけしかけたフシがあったらしいんだが、やがて佐藤に、千代夫人のことを面倒見てくれないか、つまり嫁にどうだと持ちかけたらしいのだ。佐藤の方も、当時妻と事実上離婚状態であったため、正式に離婚してから千代夫人と再婚するつもりでいたところ、谷崎がせい子(『痴人の愛』のナオミのモデルね)に振られて、結局この話は、谷崎の意向で破談になった。これがいわゆる「小田原事件」で、以後、谷崎と佐藤は絶縁状態になる。

 しかしその数年後、彼らは和解し、同時に千代夫人が別の男(和田六郎、筆名:大坪砂男)と恋愛関係になって、2人が結婚するという算段になるが、このことを知った佐藤は、千代夫人との結婚を申し出て、結局佐藤と千代夫人が結婚することになった。これが「妻譲渡事件」である。

 谷崎潤一郎の方は、こういう種々の問題でさぞかし困惑したかと思いきや、どの事件も意図的に動かしていたようで、こういうちょっと変態的な経緯を、せい子との関係は『痴人の愛』に、和田六郎と千代夫人の関係は『蓼喰う虫』という具合に、いろいろな作品として仕上げているというんだから驚きである。なんというプロ根性! で、この本では、そういういきさつを綴っているわけだ。

 事件の顛末はこのように非常に興味深いんだが、この本を1本の作品として見ると、できはひどく、よくこういうものを出版したな……しかも文庫化したなというほど、未熟な仕上がりである。言ってみれば、いろいろな題材を取材したメモを寄せ集めただけみたいな体裁で、たとえば第4章と第5章はほとんど内容がかぶっている。あとがき「文庫版によせて」によると、第4章はどうやら1本の短編小説(『影』)として別口で発表したもののようで、しかしそれなら第5章をもう少し変えるなどしてうまくまとめることもできただろう。最後の方に、著者と谷崎潤一郎の3番目の松子夫人との対談、それから著者と和嶋せい子(千代夫人の妹のせい子)との対談がそれぞれ収録されているが、これもまとまりがなく内容が散漫な上に、何が言いたいのか伝わってこない部分が多い。ともかく随所に完成度の低さが散見され、なんとなく読者をなめているんじゃないかという印象を受ける。1冊の本としては決して評価できないが、素材が非常に面白かったので読み切ったという代物である。中央公論および瀬戸内寂聴には出版の良心がないのかと疑問に感じるような本だったことは否定できない。

 なおタイトルの「つれなかりせばなかなかに」は、佐藤春夫が当時の恋人、つまり千代夫人のことを歌った詩の文句である。

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