または反知性主義に対する反論
「本が良いもの」という考え方は、(現代日本の)多くの人々が共有しているものでしょうが、では、なぜ?と言われると、答えに窮してしまうものです。そもそも今の時代、「本」と言ってもその種類は非常に多岐に渡ります。雑誌、マンガ、ライトノベル、小説からノンフィクション、学習参考書に至るまで、とにかくありとあらゆる分野の本が溢れています。100年前の(といわず50年前でも良いですが)日本人が、今の少し大き目の書店に行けば、本の多様性と出版点数におののくことでしょう。今では、このように多様な本があまりにありふれた存在になってしまったため、逆にありがたみが失われてしまうという現象さえ起こっています。
私自身のことについて言えば、本はよく読む方ですが、本を読むことがエラいから読んでいるわけでは決してないのです。もっとも若い頃はそう思っていた節もあります。一方で、若い人達には、口を酸っぱくして本は読んだ方が良いよと言っています。
その理由としては、少し見回してみればわかりますが、特に現代社会で真実が見えにくくなっているということが挙げられます。インターネットにはデタラメな情報がはびこり、それを簡単に信じる人々が多くなっているというのが現状です。国の命運を左右する政治家レベルでも偽のニュースを流す人々が現れている始末です。こういう偽情報に騙されないようにするためには、何が本物で何が偽物か見極める力が必要になります。いわゆるメディアリテラシーです。テレビや新聞などの公的な機関であっても、昨今では怪しい報道が増えており、ますますメディアリテラシーの必要性が高まっていると言えます。本物を見極める力、言い換えればものの見方の尺度とも言えますが、これは一朝一夕に養うことはできないかもしれません。ですが、若いうちにいろいろな見方に接することで少しずつ培っていくことはできます。放送や映像を通じて培うことももちろんできますが、もっとも手っ取り早く、しかも正確な情報を仕入れやすい媒体が本なのです。もちろん、どの本を選べば正しい情報にアクセスできるかというレベルでまたまた難しい問題もありますが、多くの本に接していれば徐々に真実が見えてくるというようなことも現実にはあります。若いうちは、ともすれば威勢の良い論調や自信満々に展開される主張にミスリードされがちですが、さまざまな本を通じてさまざまな意見に接することで、見えてくるものがきっとあります。決して本が万能とは思いませんが、本に接することで正しい情報を得るという選択肢を、人生の中で失ってしまうことは非常にもったいない話で、同時に危険だと思います。
本は、読み慣れている人に取っては敷居が低いものですが、普段読んでいない人にとってはなかなか近づきにくいものです。ですから、どんな本でも良いので、とりあえず一つの手段として、本に接し続ける習慣を築いておくことが重要だと私は思っています。これが私の主張です。
また、興味が広がっていくにつれて、読む本の範囲が広がるということもあります。新しい分野の本を通じてさらに興味の対象が広がってくると、その人の中で知識が集積していき、教養として定着していきます。また教養の集積は知性を築き上げる上でも役に立ちます。人間としての成長に繋がります。
本は文明の集積知です。現代のように本が簡単に手に入るようになるとそのありがたみは薄れてきますが、そもそもヨーロッパでルネサンスが起こり科学技術が発展するきっかけになったのが、グーテンベルグの活版印刷術の発明だったのです。そしてそのことが、集積知としての本の重要性を物語っていると言えます。集積知という、現代に残された膨大なデータベースにアクセスする機会を失わないようにすることが、現代の我々に与えられた使命であり、同時に特権なのではないかと思います。さまざまな本を活用することで、真実に近づく方法を担保しておこうではありませんか。