三四郎

夏目漱石著
岩波文庫

青春の瑞々しさを感じる古典作品

 このたび縁があって漱石の『三四郎』を読むことになった。この本も随分前(多分浪人時代)に岩波文庫を購入して読んだんだが、その頃は、岩波文庫にはカバーがなく、パラフィン紙が巻かれていたのだった。僕も(主人公の)小川三四郎同様、田舎から某大都市に出たばかりだったんだが、初めて岩波文庫を目にしたとき、カバーがなくパラフィン紙で巻かれた新刊本などというものが存在することにたまげた記憶がある(僕の田舎の書店には岩波文庫はなかったのだ)。今はご存知のように、岩波文庫にも他の文庫本同様しっかりしたカバーがある。しかも漱石自身がデザインしたという、かつての『漱石全集』の装丁を流用しているのもなかなかオシャレ。実際『三四郎』のような古典は、今では青空文庫でもアマゾンでも無料で読むことができるんで、すでにしてカバー云々の話ではないんだが、ここはやはり漱石は本で読みたいところ……ということで岩波文庫版を買った。

 前に読んだときも『三四郎』については良い印象を持っており、漱石作品の中では『吾輩は猫である』に次いでのマイ・フェイバリットである。特に佐々木与次郎と広田先生の絡みが好きで、漱石の俳諧趣味がふんだんに発揮されていてとても良い。また三四郎が少しとぼけているのも良い。里見美禰子みねことの絡みも実に良い。自分の若い頃が少し投影されて面はゆい感じもある。全般的にセリフがうまいという印象であるが、一方で文章自体は存外野暮な文章という印象で、あまりエレガンスを感じなかった。文豪にこんなことを言うのも厚かましいかも知れぬが。

 僕自身は、三四郎と美禰子の関係というのが非常に新鮮に感じられて好きなんだが、「美禰子が三四郎を誘惑した」だの「利用した」だのという評(この本に付いている菅野って人の解説)を読むと、そんな浅い読み方で良いのかと思ってしまう。漱石がそういうレベルの話を書こうとしたのかどうかはよくわからないが、現時点ではどうやらそういう見解が研究者の間でスタンダードになっているようで、そのあたり僕の感じ方がおかしいのかも知れない。だがもしそうなら、僕の『三四郎』に対する評価はぐっと下がってしまうが、いずれにしてもそれは非常に個人的な話。

 今回ちょっと『三四郎』のことを調べて驚いたんだが、あの与次郎のモデルが鈴木三重吉で、美禰子のモデルが平塚雷鳥だという。このモデル説、どこまで信用して良いのかよくわからないが……それにたとえ本当にモデルとして使ったとしても、どの部分をどの程度モデルにしたのかもわからない(たとえば風貌だけ、イメージだけを借用したとか)んで、(モデルの特定に)意味がないと言えば意味がないんだが、しかしそれにしても驚いた。ちなみに広田先生は、『猫』の苦沙弥先生みたいにてっきり漱石自身がモデルかと僕は思っていたが、こちらもモデルがあるらしい(岩元禎って人)。ついでに言えば、原口は浅井忠、野々宮は寺田寅彦がモデルだってんだから、今考えると超豪華キャストである。何はともあれ、漱石の世界観や明治後期の空気感なんかを堪能できたのは事実で、十分楽しめた古典作品であった。

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