「山奥ニート」やってます。

石井あらた著
光文社

新しい生き方は実は昔ながらの生き方だった

 著者は和歌山県の限界集落のシェアハウスに暮らす自称「山奥ニート」。

 大学生の時に参加した教育実習で担当教官からパワハラに遭い、その影響で大学も辞めて仕事にも就かず(就こうとしたが失敗続きで頓挫)親の世話になっていたときに、知人の紹介で和歌山県の限界集落にある空き家を紹介される。この空き家は元々NPOがニートのためのシェアハウスができないかということで用意した建物だったが、その後その計画が頓挫してそのままになっていたものだった。結局そこに住み込むことになって、その後10人以上のニート(ニートでない人もいるが)たちを呼び込み、現在では15人で共同生活をしている。

 共同生活といっても、元々ニートだった人が多いこともあり、共同作業もあまりなく、ましてや強制的な要素はないに等しい。義務的なものもあるにはあるが(使った食器は自分ですぐに洗うなど)どれも常識的な(普通の人が生活する上で必要最低限な)範囲である。各自、集まりたいときは集会所に集まるが、ほとんど1日中、部屋に引きこもるような住人もいるらしい。要求されるのは月18,000円の居住費用だけであるため、住人たちはたまにバイトしたり、あるいは集落内の農作業を手伝ったりすることで必要経費を稼いでいるという。総じてのんびりした空気感で、現在の都市生活で適用できなかった人々、つまりニートと呼ばれる人々にはうってつけの環境のようである。

 またこの限界集落は、元々の住民が5人でしかも平均年齢82才であるため、とにかくここに越してくるだけで大歓迎されたという、著者の経験によると。住民にあいさつするだけで住民から感謝されるという好待遇であるため、「山奥ニート」たちの居心地も良いようだ。そのためか、ニートの皆さんも近隣の祭りなんかに割合積極的に参加しているようである。

 要は、都市生活不適合者であっても、限界集落などの田舎に住むことで人間としての存在価値が表面に現れてきて、これまで感じていたような無力感から抜け出せるということなのではないかと思う。新しい生き方を模索してみると、結局のところ昔ながらの生き方に辿り着くという、何とも逆接的な状況になってしまったわけだ。

 ともかく、現代日本の画一化・規格化志向の都市生活・学校教育に適用できない人、そこから抜け出したい人というのは実際はたくさん存在するはずで、そういった人達にとっても彼ら「山奥ニート」の生活は大きなヒントになるんじゃないだろうかと思う。

 本文については、文章がそれなりにうまく、しかも内容に意外性があるため、楽しんで読むことができる。特に内容のユニークさという点では群を抜いていると言える。結局のところ、人間は多様なんだから多様な生き方があっていいじゃないかという至極真っ当な結論に辿り着くわけである。

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