「非モテ」からはじめる男性学
西井開著
集英社新書
「非モテ」に横たわるマッチョな思考
タイトルから、昨今増えている「卒論みたいな内容の新書」かと思って手に取ったが、あに図らんや、内容が充実した立派な論考の本であった。
「非モテ」とは、元々は「恋人が欲しいのに、恋人が得られない男」みたいなニュアンスで登場した言葉だったが、やがてその特性(身体的欠陥や低い経済状態)のために恋人や配偶者を持てない者(多くは男)というふうな定義に変わっていった。つまりかつてはシャレで済ませていたような意味の言葉だったものが、現在はもっと深刻な意味に変わっているというのが著者の解釈である。2008年の秋葉原通り魔事件で、加害者が「非モテ」に悩んでいたこともあって、これが一種の社会問題として注目されるようになったという。
著者自身も「非モテ」で悩んでいた時期があり、同時に「非モテ」現象を研究対象にしたいと考え、「非モテ」で悩んでいる人々に自由に語ってもらう会、「ぼくらの非モテ研究会」を立ち上げた。この会は、参加者自身の経験や思いを自由に語ってもらうというコンセプトで開かれており、参加も不参加も各人の自由であって、非常に緩やかな繋がりの会である。そこでの発見や気付きを元に論考をまとめたのが本書である。
本書では、「非モテ」で悩む男の代表的なパターンを類型化して紹介している。自分が属するコミュニティ(学校のクラスなど)内に存在する魅力的な集団に加わろうとするが、その集団から排除されないようにするために、場合によっては身体的特徴や(内向的な)性格などをネタにされていじられて、しかもそれを甘んじて受け入れる、そうせざるを得ない状況になるというのが入口だという。ただ、その集団内に居続けようとして、その立場を取り続けるうち(いわゆる「いじられキャラ」)、その集団に内在する価値観、つまり「男らしく立派で(身体的欠陥がなく)女性にもて異性のパートナーを持っていること」(標準的な男性像)こそ正義であるという考え方を強いられることになる。その際に、「異性のパートナーを持つ」ことが絶対的な正義になり、その条件を欠いていることが引け目になって、同時にその人気集団に属する上での資格がないかのように扱われる、つまりいじられたりすることから「モテ」こそ正義で、「モテ」になることが目標になってしまうという。そこでこういった「モテ」経験のない男たちは、なんとか恋人を捕まえようと躍起になって女性にアプローチするが(それは、モテ・グループに通底する「男は押しだ」みたいな価値観を背景としている)、これがマイナスに作用し、ますます女性から遠ざかる結果になって、自分は「非モテ」である、つまり「標準的な男性像」から逸脱した社会的弱者であると思い込んでしまう、というのが現在の「非モテ」現象ではないかと結論付けている。
だが、そこに横たわっているのは、「標準的な男性像」から逸脱することで生じる迷いであって、そもそも「標準的な男性像」などというものが幻影に過ぎないのであるし、むしろ今後、絶滅する可能性も高い価値観であるのだから、それを認識した上で、真の問題がどこにあるかを考えることが、「非モテ」で苦しんでいる人々にとっての第一歩になるというのが著者の主張である。つまり男権主義的でマッチョな思考から離れ、時代遅れの基準を捨て去って、自分らしく自由に生きれば良いのだとする考え方である。要は、男権主義は女性だけでなく男性に対しても有害であることを認識して、男性学的見地から、従来の凝り固まった思考から自由になるべきという考え方で、そこには新しい男性学的アプローチが見える。
本書では「非モテ」経験者による多くの語りが紹介されており、僕自身、身に覚えがあるようなことがふんだんに出てくる(他の人でもそうではないかと思うが)。そうすると僕自身が「非モテ」だったということにもなるわけで、「非モテ」なんてものは、状況に応じて誰にでも存在するものであり、本来それほど気にするような事象ではないのではないかと、今となっては実感する。凝り固まった考え方を捨てて、ものごとにもっと自由に対峙できたら、はるかに生きやすくなるんじゃないかと、本書の経験談に接してあらためて感じた次第。何でもあまり深刻に捉えず、あるがままに生きるのが最善の策で、ひいてはそれが非「非モテ」に繋がるんじゃないかと思ったりもする。