全国アホ・バカ分布考
はるかなる言葉の旅路
松本修著
新潮文庫
方言学のパースペクティブ本
朝日放送で放送されている人気テレビ番組に『探偵!ナイトスクープ』というものがある。知らない人に説明すると、この番組は、視聴者(いわゆる「依頼人」)からの問題提起(いわゆる「ネタ」)に対して、「探偵」と称する芸能人がその現場に赴き解決していくという内容で、そのネタについては奇想天外だったりバカバカしかったり、あるいは学術的に有意義なものまで出てきて、非常に内容が濃い。30年以上番組が続いているのも頷けるような立派なバラエティ番組なんである(もっともこの5、6年は内容が非常にチープになってきたため、僕自身はまったく見ていない)。
さらに言うと、この本で取り上げられているテーマ、「全国アホ・バカ分布」というのは、かつてこの『ナイトスクープ』で取り上げられたネタで、この番組が始まった頃に放送された企画である。簡単に言うと、視聴者からの「東のバカと西のアホとの境界を調べてほしい」という依頼に応えたエピソードで、なんでもこのネタの「依頼人」、関西出身の新婚の女性なんだが、結婚相手が関東出身だそうで、何かというと夫から、言われ慣れていない「バカ」という言葉を言われ傷つくというのだ。一方自分の方は夫に「アホ」とつい言ってしまい、「アホ」と言われ慣れていない夫はこの言葉に傷つくという。つまり関東と関西では「バカ」と「アホ」の日常的な使い方が異なるということらしい。そこでどこまでが「バカ」をよく使うバカ圏で、どこまでが「アホ」をよく使うアホ圏か、その境界を調べてほしいというのがこの元ネタだったというわけ。
で番組では、探偵役の北野誠が東京を手始めに、愚かしいことをなんと呼ぶか訊きながらだんだん西に向かって移動していくという手法をとった。こうしていくといずれ「バカ」が「アホ」に変わる地域が出てきてそこが境界ということになるという算段である。ところが実際に調べていくと、いきなり「アホ」に変わる境界というものはなく、東海地方に「タワケ」文化圏が登場した。ということになると全国には「アホ」、「バカ」以外にも他の呼び方があるんじゃないかということになってさらに大きな広がりを持っていったのがこのエピソードだった。結局このエピソードはその後さらに深く掘り下げられ、そうして作り上げられたのが「全国アホ・バカ分布図」で、人を罵る言葉が日本国内でどのように分布しているかが詳細に調べられ丁寧にまとめられたのだった。この「全国アホ・バカ分布図」で明らかになったのは、全国のアホ・バカ分布が、京都を中心にほぼ同心円状に広がっているということで、これはまさに柳田國男が『蝸牛考』で提唱した(そしてその後自ら疑義を呈した)方言周圏論を体現したものだったということ。これは国語学的に見ても面白い事実で、そのためもあってか、このエピソードのみを特集した『ナイトスクープ』の特番が、ギャラクシー賞や日本民間放送連盟賞を受賞したのだった。
ここまでが前振りなんだが、本書の著者は、まさにこの番組のプロデューサーを務めていた人で、こういった事情についてこの本の序盤で詳しく解説している。ただ著者は、これまで調べあげたことをこの特番ですべて終わらせるのが忍びないと感じ、その後もさらに突っ込んで、アホやバカの語源やその成り立ち、いかにしてこういった言葉が広がっていったかなど個人的に調査していくことになる。また方言周圏論についても検討を加え、柳田國男の自説への疑義に対してまで検討を加えるということまで行っている。
この本では、著者の知的関心が余すところなく表現されているため、著者と同じ立場に立って知的冒険を追体験できるようになっている。構成のうまさは『ナイトスクープ』と共通するものがあってさすがとうならされる。知的な面白さ満載で、終いには「バカ」や「アホ」の語源について新説を提示している(「馬鹿」の語源の説は、秦の宦官、趙高に由来するものが有名。『本の紹介「史記(横山光輝版)」』参照)。国語学の門外漢であったはずの著者が、学界をうならせるような新説を学会で提示したというのも痛快である。また著者のサービス精神のせいか、現在の方言学の有り様まで細かく説明があって、方言学に対してひとつのパースペクティブ(見通し)を与えるものになっているのもこの本の特徴である。文庫で500ページを超える大著だが、読んで損はない、方言学入門のための好著である。