元禄御畳奉行の日記 (上)、(下)
神坂次郎原作、横山光輝著
秋田文庫
横山光輝がこんなものまで
横山光輝のマンガである。原作は、中公新書から出た『元禄御畳奉行の日記』。これは出版当時かなり話題になった本で、そのことは僕の記憶に残っている。ただしこのマンガを読むまで原作本は読んでいなかったため内容についてはよく知らなかった。今回、酒井伴四郎という下級武士に関する本(『幕末単身赴任 下級武士の食日記』)を読んだため、その流れで江戸のリアルな武士の生活にもう少し触れてみたいと感じて、この本に思い至った。あの中公新書は今でも出ているかなと思ってネットで探してみたところ、横山光輝のマンガ版があることを知って、さしあたりこちらを図書館で借りてきたというわけ。
内容は原作をかなり忠実に再現しており、主人公の朝日文左衛門の人となりや生活がリアルに甦ってくる。ちなみに原作は、この朝日文左衛門が残した『鸚鵡籠中記』から面白い記述を引っ張り出して、それで文左衛門の当時の生活を探っていくという趣向の本である。
この朝日文左衛門って人、とにかく異常なほどの記録魔で、18歳から45歳までの26年8カ月に渡って自分の周りで起こったことを克明に記録しており、それに『鸚鵡籠中記』と名付けていた。この本は尾張藩に保存されていて永らく公開が禁じられていたらしい(本書による)。一つには幕政や藩政に対する批判が記述されていたためとされているが、実際に徳川綱吉の政策についてはかなり痛烈に批判しているようだ。また藩主の一族についても色情狂扱いしている他、彼らのゴシップを書き連ねたりしていることもその原因と考えられる。
ただ、公務員である武士がここまで藩政や幕政を批判できていたというのは意外で、封建主義の権化みたいに言われている江戸時代のイメージを一新する事実である。ここに書かれているようなことは、当然当事者間で酒のつまみとして話されていたようなことだろうと思う。それを考えると、彼らには、封建社会とは言え、今の我々が考えている以上に自由闊達な気風があったのかも知れない。
またゴシップと言えば、藩主だけでなく近隣で起こった事件などについても詳細に取り上げられていて、これも単にイメージとしての江戸でなく、リアルな当時の姿を伝えてくる。とにかくこの文左衛門、酒井伴四郎同様非常にマメで、あれやこれやを事細かく書き綴っているのである。当時当たり前だったことというのはなかなか記録に残りにくいものだが、そういう点を細かく記録している点でもこの『鸚鵡籠中記』には価値があると言える。
さてこの文左衛門、いろいろな手習いに通い、その手習い先の娘と結婚して、やがて父から家督を受け継いで一家の主となる。その後、酒と女遊びにうつつを抜かし、妻の嫉妬が激しくなって夫婦関係がうまく行かなくなる。その後一種の帰宅恐怖症になって、友人たちと飲み歩くようになるが、それが妻の嫉妬に拍車をかけて、ますます家に帰れなくなるという悪循環に陥るのだ。このあたりは、侍であっても現代人と共通する部分である。結果的に妻とは離縁し、その後再婚するも、二番目の妻の嫉妬も輪をかけて強烈で、ますます酒に溺れるようになるのだった。で、結局酒で肝臓を悪くし、酒で命を取られることになるんだが、身から出た錆とはいえ結婚運もあまり良くなかったのかも知れない。
また、若くして御畳奉行という役職を拝命し出世する。で、その職務上3カ月間の京大坂出張があったんだが、この間商人の接待攻勢に遭い、毎日楽しく過ごしたりしている。そのためこの京大坂出張は文左衛門にとって数年に一度の楽しみになる。接待されて喜び浮かれるなどというのも現代のサラリーマンとさほど変わらず親近感が持てる。さらに言うと、当時の役人(武士)の状況が300年後の今とあまり変わらないというのもなかなか興味深いところである。1人の記録魔のおかげで、元禄時代の武士のリアルな生活が垣間見えてくるわけだ。
江戸という時代が泰平の時代で、文化面、経済面で大いに発展したことを考えると、そこでの生活が現代に通じていても何ら不思議はないんだが、我々に与えられている江戸時代のイメージがあまりに封建的で窮屈な社会というものであるため、リアルな姿が見えてくるといまだに意外に思えてくる。こういう機会を通じて、作られた「江戸暗黒時代」のイメージを少しずつ取り払っていきたいところである。