トーニオ・クレーガー 他一篇

トーマス・マン著、平野卿子訳
河出文庫

日記的な、あまりに日記的な

 昨今、平易な翻訳で古典を復刻するような風潮があるが、これは非常に歓迎すべき状況である。なにしろ昔の翻訳本は読みづらかった。どことなくお高くとまっているという感じで、平易な日本語で書いたらどうだといつも思っていただけに、とても良い徴候であると思う。手放しで賞賛するぞ。

 さて、この『トーニオ・クレーガー』もかつては『トニオ・クレエゲル』(岩波文庫版)などというタイトルで出版されており、このタイトルを見るだけで、十分腰が引けてしまうのであった。ちょっとめんどくさそうな日本語が羅列していそうな感じというのか(実際は知らないが)。だが少なくとも最近出版されたこの『トーニオ・クレーガー』については、非常に読みやすい文章で、「平易な翻訳で古典を復刻」の風潮に乗ったかどうかは知らないが、ともかく歓迎すべき本であると言える。

 で、ほとんど何の予備知識もなくこの本を読んだんだが、正直言って『トーニオ・クレーガー』については、選民意識が鼻についてあまり好きになれなかった。また、長ったらしくくどいセリフも鬱陶しい。自伝的な話らしいが、青臭い感じもして少々気恥ずかしい気もする。全編「ぼやき」という印象もあり、ぼやきを長いこと聞いていると疲れてしまうが、あれに近い感覚である。あちこちの作家に大きな影響を与えたという書らしいが、僕は「もう結構」というような感想であった。『ベニスに死す』みたいなもう少しドラマチックな話の方が、初めて読むトマス・マン作品としては良かったのかなと思う。

 さて、ついでと言っては何だが、本書に収録されているもう一編の小説『マーリオと魔術師』も読んでみた。実はこちらは「もう少しドラマチック」な展開で、日記みたいな『トーニオ・クレーガー』よりはるかに面白いと感じた。記述もわりに客観的で淡々としており、表現も的確である。情景が『ベニスに死す』に近いせいか、イメージも浮かびやすい(『ベニスに死す』はヴィスコンティの映画で見てるもんね)。というわけでこちらの方が僕としてはお奨めである。物語的な小説であり、しかも象徴性もあって、読んだ後の重量感はこちらの方が大きかった。

 また、両作品とも、ドイツでの初版発行時の挿絵が掲載されており、本として非常に親切であったことも付記しておかなければならない。良書と言える。

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