少年の日の思い出

ヘルマン・ヘッセ著、岡田朝雄訳
草思社文庫

ヘッセの作品以上に
紹介されているエピソードが面白かった

 『車輪の下』で有名な、ドイツの文筆家、ヘルマン・ヘッセの短編集。おそらく日本では『車輪の下』より有名な短編小説『少年の日の思い出』が収録され、それが本書のタイトルにもなっている。

 『少年の日の思い出』は、戦後すぐの国語教科書に採用され、その後現在に至るまで70年以上に渡って、多くの国語教科書で採用され続けている。したがって、現在の日本人のかなりの部分が『少年の日の思い出』に何らかの形で触れていると考えられる。

 『少年の日の思い出』は、少年時代、蝶の採集に熱中していた主人公が、その後、同級生が持っている貴重な蝶の標本を持っていってしまい、それについて著しく後悔するというようなもので、少年時代の苦々しい思い出が語られる物語である。おそらくヘッセの自伝的な小説なんだろうが、ここに登場する蝶、僕が接した教科書では「ヤママユガ」ということになっていて、蝶の採集が趣味なのに蛾なのはどういうことだと話題になっていたような記憶はある。それに(日本ではイメージが悪い)蛾なんか捕まえて面白いのかという感覚もおそらくあったように思う。

 ところでこの「ヤママユガ」だが、翻訳によって名前が違っており、以前は「楓蚕蛾ふうさんが」と訳されていたようで、中学生時代に教科書で本作に触れた、本書の翻訳者の岡田朝雄にとってはこれが大きな関心事だったというのである。というのも、この岡田氏、当時から蝶採集が趣味で、「楓蚕蛾」がどういう虫なのか見当が付かなかったためである。その後、彼はドイツ文学を専攻し、この作を原文で読んで、その蛾の種名を克明に調べ、この蛾(Eudia Spini)に和名がないことを確認した。そこでこの「楓蚕蛾」に対し、「クジャクヤママユ」という名前を付けて翻訳し直したのが今回のこの作なのだった。

 その後訳者は、『少年の日の思い出』を最初に日本語訳した(つまり日本にこの作品を紹介した)高橋健二に面会し、そういう話(蛾の種名についての話)をしたところ、興味を持たれたようで、蝶と蛾の話を詳しくしてくれと依頼され、結果的に、高橋氏自身の手で訳文も変更することになったという。なお、このあたりのエピソードは、本書の「訳者あとがき」に記載されていたものである。

 つまり本書に掲載されている『少年の日の思い出』は、蝶マニアのドイツ文学者が訳したものであるため、少なくとも蝶や蛾についての記述は非常に正確になっている(おそらく)。ただし、一般の読者からすると「ヤママユガ」でも「楓蚕蛾」でも「クジャクヤママユ」でも構わないのであって、そこまでのこだわりが必要なのかとも思うが、翻訳者の岡田氏をはじめとする関係者はこれで大いに納得したのではないかと思う。

 本書には他に、『ラテン語学校生』、『大旋風』、『美しきかな人生』が収録されているが、『少年の日の思い出』を含め、どれもヘッセの自伝的な作品である。『車輪の下』同様、自然描写が執拗に出てくるのが特徴的で、これについては読者によって好みが別れるところではないかと思う。どの作も自伝的であるため、ヘッセの生涯と照らし合わしながら読み進めていくと興味が一層深くなるのではないだろうか。

 本書は草思社文庫から刊行されたもので、草思社文庫には他にもヘッセの作品がいくつか収録されていて、なかなか興味深いラインナップになっている。それにこの文庫、前にも書いたが、紙質が非常によく、高級感がある上めくりやすい。また本書については、冒頭に『少年の日の思い出』に登場する蛾と蝶の図版が収録されていて大変親切である。

 なお、かつての「蝶の採集なのに蛾を捕まえてどうするんだ」という疑問だが、少なくともドイツやフランスでは蛾と蝶を区別しないのだというのがその回答になる。ドイツ語で、蝶はTagschmetterling(昼の鱗翅類)、蛾はNachtschmetterling(夜の鱗翅類)と呼び、一般的には「鱗翅類」というまとめた扱いになるらしい。したがって、蝶の採集が趣味で蛾を捕まえても一向に問題ないわけである。このあたりは、本書の『少年の日の思い出』の注で触れられていた。蝶マニアの訳書であるため、そういう点ではいろいろと勉強になる。

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本の紹介『車輪の下で』
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本の紹介『トーニオ・クレーガー 他一篇』
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本の紹介『変身/掟の前で 他2編』