とはずがたり
後深草院二条著、 佐々木和歌子訳
光文社古典新訳文庫
この本には原典を超えた価値がある
鎌倉時代末期に、天皇付きの女房によって書かれた(とされる)古典作品『とはずがたり』を現代語訳した作品。
『とはずがたり』は、書かれたのは鎌倉時代だが、昭和13年に「発見」されるまで人目に触れることもあまりなかったという。解説によると、たまたま宮内省図書寮というところで見つかり、戦後広く世に知られるようになったらしい。しかも写本が他にほとんどなく、そういう点でも非常に珍しい書物と言える。その上、内容がまたすさまじく、早い話が宮中での奔放な性が描かれているのである。僕は以前、マンガ版で本作に接したんだが、その内容にことのほか驚いた。
主人公は「二条」と呼ばれる女房で、この二条の独り語りという形式で記述が進められ、普通に読めば日記めいた印象を受ける。この二条、持明院統の祖である後深草上皇に仕えていた。元々は、後深草院が二条を自分のところに呼び寄せ、幼い頃から可愛がっていたが、大人になってから自分の手元で「女」として接し始めるのである。このあたり光源氏と紫の上の関係を彷彿させる話で、後深草院自身が『源氏物語』を意識していた可能性がある。一方の二条も、最初は戸惑いつつも、後深草院を男として愛するようになるが、実はこの時点で西園寺実兼(通称「雪の曙」)という相思相愛の恋人がいたのだった。後深草院のそばでお世話(性的な相手も含まれる)をしながら、実兼とも通じており、挙げ句に実兼の子どもまで宿して産んでしまう。後深草院の子どももそれ以前に産んでいるため、実兼の子どもは不義の子ということになるのか。その上、後深草院の弟である仁和寺の阿闍梨(通称「有明の月」)とも通じ、その子どもも産んでしまう。阿闍梨との関係は後深草院公認であるが、後深草院は嫉妬したりもする。さらにさらに、後深草院は、弟の亀山上皇(大覚寺統の祖)にも、自分の女房である二条を性の相手として貸し出す。なんでも、女房というのは当時そういう存在だったらしいのである。ただ、二条の方は、後深草院や周りの人々に必ずしも従順だったわけでなく、何かというと院に反抗したりして、振り回したりもしている。要するにこの二条という人、高貴な人々の間でとても人気のあるアイドル女房であり、いろいろな人にアプローチされていた、そしてそういう境遇を嬉しく思っていた節がある。
ただこうやってちやほやされていた時代は若いうちだけで、やがて後深草院の奥方ににらまれるようになって、ついには宮廷から放逐されてしまう。それでも後深草院は二条を呼び寄せようとしたが、例によって二条の方は、プライドのせいかこれを突っぱねたりするのである。そしてとうとう、宮廷から離れていく。
『とはずがたり』の原作では、宮廷から離れた後の記述がしばらく途絶え(なんらかの理由で失われているようだ)、その後に続くのは数年後の記述になる。このとき二条はすでに出家しており、敬愛する西行のごとく諸国を放浪するという生活を送っている。鎌倉や長野を訪ねては和歌を贈ったり贈られたりという生活をしている。後深草院からは帰ってくるようにという誘いを受けたりもするが、二条は宮廷との関係を完全に断った状態を続ける。だが後深草院への愛情はまだ醒めておらず、宮廷への思慕も相変わらず持っている。二条はその後も放浪を続けるのだが、少しずつ年を取っていき、アイドル的な役割としての価値を失っていくことになる。宮廷付きの女房が宮廷との関係を断ってしまったらどうなるかということが読者にはわかるのだが、そこには使い捨てにされた人間の悲哀が漂うのである。
以前マンガ版を読んだときは、放浪編の印象が非常に薄かったため、奔放な性を謳歌する貴族の描写程度しか頭に残らなかったが、やはりこの作品の魅力は、かつてのアイドル的モテ女が、年を取っていくにつれて華やかな世界から遠ざかっていくあたりの悲哀にあるのではないかと思う。したがって、たとえ翻訳であるにしても、このような形で、全編、原典に近い形で当たるのが、作品の魅力を味わう上で必須だったと今になって思う。
この本については、翻訳がかなりよくできていて、たとえば恋人の実兼については、地の文で「あの人」などという呼び方をしている。原作ではこういう表現がないため、訳者が意図的にしたものだろうが、わかりやすいだけでなく、情感が伝わってきて非常に良いと思う。文章の記述も平易で、院や二条のセリフもそれらしく書かれている。読みものとしてよくできていると思う。また、本としても、冒頭に「日本の伝統色」というページがあり、伝統色がカラーで紹介されている他、当時の風俗(衣服や乗り物)、登場人物同士の関係性や、それぞれの系図、地図、さらには年表と付録が掲載されていてサービス満点である。付属の栞にも、登場人物の簡単な紹介があるため、いちいち前のページに戻って確認するという作業も少なくて済む。大変良く考えられた編集になっている。訳者による解説も的を射ていて、この文庫本全体で、欲しい情報がすべて提供されているという印象。前に同じシリーズで出ていた『堤中納言物語』よりも本としての質ははるかに高い。『とはずがたり』をシリーズ収録作品として選択したこと自体がそもそも英断なんだが、編集者が隅から隅までこだわってこの本を作っていることが伝わってくる。訳者だけでなく編集者の能力の高さも伝わってきて、大変気持ちの良い本に仕上がっている。