百代の過客

ドナルド・キーン著、金関寿夫訳
講談社学術文庫

日本人が日本文学を再発見できる

 日本文学研究者のドナルド・キーンによる日本日記史。

 同名タイトルの朝日新聞の連載が基になっており、元々は日本の日記を1本(または複数本)取り上げそれについて論じたものが毎回掲載されたらしい。ドナルド・キーンは、かつての夏目漱石と同じように、朝日新聞の嘱託として採用されており(何でも司馬遼太郎が猛烈に朝日にプッシュしたそうだ)、そのときに(満を持してという感じで)発表されたのがこの『百代の過客』で、それをまとめて一冊にしたものがこの本である。

 本書で取り上げられた日記は、円仁の漢文日記『入唐求法巡礼行記にっとうぐほうじゅんれいこうき』(9世紀中頃)から江戸末期の『下田日記』に至るまでの78書である。ちなみにこの『下田日記』は、幕末期日本に来て通商を求めたロシア人、プチャーチンとの交渉に当たった川路聖謨かわじとしあきらが、その模様を記録したもので、同じ川路の『長崎日記』という日記も取り上げられている。この78書は、平安時代12書、鎌倉時代17書、室町時代(戦国時代も含まれる)22書、徳川時代27書という内訳である。『土左日記』、『蜻蛉日記』、『和泉式部日記』、『更級日記』、『笈の小文』や『奥の細道』のような有名なものだけでなく、先ほどの川路聖謨の日記のように、一般人がほとんど目にすることがないかなりマイナーなものも含まれている。どれも個人の日記ではあるが、著者によると、現代人の日記と違って(あるいは根本的には同じかも知れないが)誰かの目に触れることを想定して書いたものばかりらしい。そもそも日本の日記は、儀礼の手順などを後の世代に文書で伝えるために書かれていたものが元祖という。したがって個人的な心情の吐露というより、どこか公式的な雰囲気が漂うものが多い。

 もちろん『蜻蛉日記』などは、度が過ぎた心情の吐露に溢れているわけだが、この著作にしても、おそらく著者の藤原道綱母は、夫の非道を大衆に訴え、自分に対する同情を勝ち取ろうとしたのではないかと著者は考えている。とは言うものの著者は、道綱母の訴えを額面通り捉えず、彼女の夫である藤原兼家の立場に立った上でも日記の内容について検討している。その結果、『栄花物語』や『大鏡』の記述から、藤原兼家が実は子煩悩で(藤原道綱母が養育していた)息子の道綱にも会いたかったが、会いに行くとその母である道綱母からしきりに嫌みを言われたりして(そのあたりの記述は『蜻蛉日記』に見受けられる)、結局疎遠になったというのが本当のところではないかと結論付ける。しかも道綱母が兼家の第三夫人(道綱母は第二夫人)の不幸を喜ぶ記述なども取り上げていて、道綱母の人間性にも疑問を呈している。ただそういった心情が吐露されている部分こそが『蜻蛉日記』の文学的価値を高める役割を果たしているとも書いている。このように『蜻蛉日記』の考察だけでも非常に興味深く、きわめて価値が高い論考であると考えられる。

 他にも『成尋阿闍梨母集じょうじんあじゃりのははしゅう』(母親の息子べったりぶりが半端ない、しかも当時母は84歳、息子は61歳)、『うたたね』(『十六夜日記いざよいにっき』の阿仏尼あぶつにの若い頃の日記で、失恋によるショックで出家しようとする)など、あちこちから、さまざまな種類の(文学的に)変わった日記を拾い出して論じていて、著者の見識の高さに感心することこの上ない。もちろん変わった日記といえば『とはずがたり』も外せないところである。

 また、文学的にあまり名前の知られていない作者による日記にしても、彼らが生きた時代背景がリアルに描かれていて、歴史的な事件が身近な出来事として扱われていることがわかる。こういった日記に触れると、結局、歴史も幾多の人が関わることでできあがるのだなということが実感できるのである(もちろんそれぞれの日記に対しては、本書を通して間接的に触れているだけではあるが)。本書には、日本の歴史と文学の両方の観点から興味深い記述があちこちに溢れており、同時に日本の日記文学の芳醇さも感じることができる。文庫本で600ページを越すという大著であり、途中、取り上げられている日記によっては少々退屈する部分もあるが、しかしこれはちょっとないがしろにできない著作であると感じる。

 当初著者のドナルド・キーンは、円仁の日記から、著者が直接知己を得ている現代の作家の日記まで集める予定だったが、想定以上の日記を取り上げたことから、残念ながら幕末で連載が終わってしまったらしい。結局、本連載の人気もあって、その数年後に続編の連載を始めるのである。それが『百代の過客〈続〉』で、こちらでは明治初期から正岡子規、徳冨蘆花あたりの日記まで出てくる。こちらも文庫本で750ページを越す大著であるが、『百代の過客』ともども、読んで決して損はない良書であると思う。そういうわけで僕は両方とも購入した。手元に持っていることが喜ばしい本で、僕自身、日本文学を再発見できたような心持ちがしているのである。

-文学-
本の紹介『百代の過客〈続〉』
-文学-
本の紹介『日本文学史 近世篇〈一〉』
-文学-
本の紹介『日本文学史 近世篇〈二〉』
-文学-
本の紹介『日本文学史 近世篇〈三〉』
-文学-
本の紹介『日本人の美意識』
-随筆-
本の紹介『ドナルド・キーン自伝』
-古文-
本の紹介 『ビギナーズ・クラシックス 蜻蛉日記』
-古文-
本の紹介『ビギナーズ・クラシックス 土佐日記 (全)』
-古文-
本の紹介『ビギナーズ・クラシックス 和泉式部日記』
-古文-
本の紹介『とはずがたり』