詭弁社会
日本を蝕む”怪物„の正体

山崎雅弘著
祥伝社新書

「説明を差し控えさせていただきます」
イコール
「てめえらに語ってやる必要なんてねえだろ」

 ここのところ、問題を起こした政治家や経済人が何かというと「説明を差し控える」などと語っていて、それがさも彼らの当然の権利であるかのごとく扱われていることに大変な違和感を持っていたが、同じような不満を抱いている人はやはり多いようである。この本で扱われている事例もこういったごまかし論法に関するもので、それを著者は「詭弁」と呼んでいる。僕としては「詭弁」という言葉をこういう意味で使うことは必ずしも適切であるとは思わないが、とりあえず著者の主張にあわせて、ここでは「詭弁」という用語を使用することにする。

 本書では、現在、新聞・テレビなどのメディアに頻出するこのような代表的な「詭弁」を取り上げて、どこに問題性があるかについて論じている。たとえば先ほどの「説明を差し控える」については、容疑者が取り調べを受けている場合に「説明を差し控える」などという言葉を吐くことができない状況を考えてみれば、その異常さが明らかになる。その人間の行為に問題性があるせいで質問されているにもかかわらず、その回答を拒否するという行動は、通常であれば許されないわけである。唯一可能な状況と言えば、それが公権力を濫用する権力者である場合に限られ、したがってこういう言動をする人間は、「差し控えさせていただく」などと一見へりくだった態度をとってはいるものの、「下々の者にいちいち説明する気はない」と宣言しているようなものであり、市民に奉仕する公僕としての説明責任を果たしていないというのが客観的事実ということになる。そのためこういう言説が出てきたら、報道関係者や市民はその無責任さや自己中心性を追及すべきであり、その状況を放置してきたことが今のようなカオス的な状況を作り出したのだと著者は言う。

 安倍政権以降よく使われる「そのようなご批判は当たらない」、「すでに調査は終了した」などという言説も同様であり、そもそも疑惑を持たれている側が使って良い言葉ではなく、(少なくとも)対等な関係の場合では使うことができない言動だというのが本書の主張である。本書を読んで、僕が安倍・菅元首相の言葉にいちいち傲慢さや不快さを感じていたのも、「エライ俺たちにたてつくな」という空気が醸し出されていたからだということにあらためて気付かされることになった。

 こういった「詭弁」に対してどのように対処していくか、そしてそういう「詭弁」だらけの社会がどのような結果を生み出してきたか(たとえば太平洋戦争の時代など)が本書で紹介されているが、すでに現代の日本には同様の傾向が見てとれており、そこから窺える未来についてもあまり明るい見通しを感じることはできない。

 少なくとも、周囲のこういった「詭弁」に対して個人レベルで冷静に対処できるようになれば、論理のすり替えで人を「論破」しようとする輩に正面から対峙できるようにはなるのではないかと思う。そういう人々が巷に増え、自分の頭で考えられる人間が増えてくれば、社会が自ずと少しは良い方向に向かう可能性も出てくるのではないかという気がする。はなはだ期待薄ではあるが。

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