富嶽百景・走れメロス 他八篇

太宰治著
岩波文庫

本を買って読むことにも
別の価値がある

 太宰治の初期作品集。この岩波文庫版、1957年に初版が刊行されており、「あとがき」はなんと(太宰の師匠格である)井伏いぶせ鱒二ますじの手によるもの。ここらあたりに岩波書店の歴史を感じることができる。太宰は1948年に死んでいるが、作家の死の10年後に師匠の解説付きで短編集が文庫化されたということで、この出版社自体が作家と同時代を過ごしているのだなと感じられる。岩波文庫版を買う価値というのはこういうところにある。

 さて、本書に収録されているのは「魚服記」、「ロマネスク」、「満願」、「富嶽百景」、「女生徒」、「八十八夜」、「駆け込み訴え」、「走れメロス」、「きりぎりす」、「東京百景」の10作品。

 「魚服記」、「ロマネスク」はおとぎ話風の小説で、後の太宰のイメージと違った初々しさを感じる。この後、つまり「満願」以降の8作が、太宰全盛期における初期作品という位置付けになる。実は、この「ロマネスク」(1934年発表)と「満願」(1938年発表)の間に、二度目の心中騒ぎを起こしていて、その間が作家にとってのエポックだったわけ。

 その次の「富嶽百景」は初期の代表作で、これはもう太宰の文才が発揮された作品で、生活を立て直す頃の身辺雑記みたいな話であるが、全体に渡り文章が躍動している。こういうタイプの文体はおそらく太宰が日本文学史上最初じゃないかと思うが、焦点のずらし方が絶妙で、それがおかしみを生み出している。文章表現のモデルと言ってよいような作品である。

 次の「女生徒」は正直言ってどこが面白いのかわからない小説で、おそらく誰か身辺の人間をモデルにしたんだろうと思ったところ、実際ファンの日記をモチーフにしたらしい。若い女性のリアルな生活に興味があってこういう小説に仕立てたんだろうと思うが、ほとんど日記感覚であり、僕はあまり面白味を感じなかった(川端康成は激賞したらしいが)。

 「八十八夜」と「きりぎりす」はその後の「ヴィヨンの妻」などを彷彿させるような、周りの目から「ひどい自分」を描いたような小説で、この時点での新境地と言える。

 「駆け込み訴え」は、ユダとキリストの関係を現代風に描いた意欲作で、戯画的だが大変意欲的で面白い。
 「走れメロス」は、教科書によく採用されている小説で、僕自身はこういった理想主義的な話は昔から嫌いなんだが、太宰自身に実際に起きた話をモチーフにしているという話を聞いて俄然興味が湧いたのだった。
 以下Wikipediaから引用。

 懇意にしていた熱海の村上旅館に太宰が入り浸って、いつまでも戻らないので、妻が「きっと良くない生活をしているのでは……」と心配し、太宰の友人である檀一雄に「様子を見て来て欲しい」と依頼した。
 往復の交通費と宿代等を持たされ、熱海を訪れた檀を、太宰は大歓迎する。檀を引き止めて連日飲み歩き、とうとう預かってきた金を全て使い切ってしまった。飲み代や宿代も溜まってきたところで太宰は、檀に宿の人質(宿賃のかたに身代わりになって宿にとどまる事)となって待っていてくれと説得し、東京にいる井伏鱒二のところに借金をしに行ってしまう。
 数日待ってもいっこうに音沙汰もない太宰にしびれを切らした檀が、宿屋と飲み屋に支払いを待ってもらい、井伏のもとに駆けつけると、二人はのん気に将棋を指していた。太宰は今まで散々面倒をかけてきた井伏に、借金の申し出のタイミングがつかめずにいたのであるが、激怒しかけた檀に太宰は「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね。」 と言ったという。
 後日、発表された『走れメロス』を読んだ檀は「おそらく私達の熱海行が少なくもその重要な心情の発端になっていはしないかと考えた」と『小説 太宰治』に書き残している。

Wikipedia「走れメロス」より

 ひどい奴があるもんで、おかげでずっと嫌いだった「走れメロス」も、太宰自身にツッコミを入れながら読めるようになり、随分堪能できた。

 「東京百景」も、エッセイ風の身辺雑記である。作家の余裕みたいなものが窺える。とは言え、これが書かれたのが1941年初頭であることを考えると、世間に窮屈な空気が流れていたことが想像できる。そういうことを考えると、この余裕は、あくまで職業人(ある程度売れ出した作家)としての余裕に限定されるんだろうかとも思う。

 いずれにしても、この岩波文庫版、初期作品がうまい具合にピックアップされていて、太宰作品を存分に堪能できる短編集であると言える。太宰をはじめとする古典作品は、現在ではネットで無料で読めるようになっているが、本を買って読むことにも別の価値があるんだよということがよく分かる、そういう見本みたいな本であった。

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