源頼朝像 沈黙の肖像画

米倉迪夫著
平凡社ライブラリー

源頼朝のイメージは
「源頼朝像」によって形作られていたと感じる

 1964年、ルーブル美術館からミロのヴィーナスが日本に貸し出され、日本公開の運びになった(国外に貸し出されたのは後にも先にもこれっきりだそうで)。そのときにルーブル側からあの「源頼朝像」を代わりに貸し出すよう求められたが、「頼朝はダメだけど重盛なら」ってことで「平重盛像」がルーブルに貸し出されたという。そういう話を昔、予備校の先輩から聞いたんだが、本当のところはわからない。何となく都市伝説みたいな気もするが、だが少なくとも「平重盛像」がルーブル美術館で展示されたのは事実のようだ。

 さて、この「源頼朝像」と「平重盛像」、所蔵しているのは京都の神護寺で、僕も若い頃、高雄の神護寺まで(京都市内から)自転車を走らせて見に行ったことがある。当時は、この肖像画、5月のゴールデン・ウィークのときしか一般公開してなかったので、なかなか見ることができなかった(今はどうだか知りません)。実際に見てみると、国宝だけあって、その偉容はさすがに目を瞠るものがある……となんとなく思った。この辺、若干権威主義的だが、当時はその程度の認識しかなかったのだ。これがあの教科書でよく目にした頼朝かと感心したものだった。

 だがこの「源頼朝像」、実は頼朝じゃないという説が世間を賑わしているらしい。と言うより、今では頼朝じゃなく足利直義ただよし尊氏たかうじの弟)だという説の方が有力なようで「平重盛像」の方も本当は足利尊氏像なんだそうだ。先日、小学生向けの教科書を見たところ、この「頼朝像」のキャプションに「伝・源頼朝像」と付いていたほどで、「尊氏・直義」説も無視できない存在になっているということなんだろう。

 で、その「尊氏・直義」説を最初に提起したのが本書の作者、米倉迪夫で、本書で書かれているのがその主張に当たる。

 この肖像が、頼朝・重盛像(以下「神護寺三像」)とされた根拠になっているのは、神護寺に伝わる『神護寺略記』で、そこに後白河法皇、源頼朝、平重盛、藤原光能、平業房らの肖像が神護寺の仙洞院に収められているという記述がある。ただし、現在神護寺に残されている「源頼朝像」と「平重盛像」が、これに該当するかどうかは実のところわかっていない。それぞれの絵の作者は藤原隆信(1142-1205)と記述されているが、現物は、時代的にもう少し下がるんじゃないかというのが、本書の主張である。

 まず、中世の肖像画の歴史と特徴から書き進め、藤原隆信の頃に始まった「似絵にせえ」(「頼朝像」は似絵の代表作とされていた)の特徴について論述していく。次に、この神護寺三像の描画法について検討していき、それが似絵と異なっており、時代が14世紀まで下がる可能性が大きいことを指摘する。そして歴史的な経緯についても検討し、足利直義が神護寺に二幅の肖像画(足利尊氏と足利直義)を奉納したという記録があることを紹介する(足利直義願文 - 康永四年(1345年))。これについても検討を加え、最後に「神護寺三像」の画風について検討し、頼朝や尊氏の他の肖像との比較なども行って、「神護寺三像」のモデルは、足利尊氏、足利直義である可能性が高いと結論付けている。ちなみに「神護寺三像」のもう一像(現在「藤原光能像」とされているもの)については足利義詮よしあきらに比定している。

 この論は日本の史学界・美術学界にセンセーションを起こした模様で、その後も反論や再反論、新説などが繰り返されているが、おおむね尊氏、直義で落ち着きそうな様相だという。実際この本の主張は非常に説得力があり、頼朝、重盛よりも尊氏、直義の方が可能性ははるかに高いと思わせるものがあるが、ただ残念なのは決定的な証拠がないということで、だからこそ今までもめてきたんだろうが、そうは言っても非常に斬新で有意義な議論であることは確かである。元々論文として書かれたもののようで、論文調で多少読みづらさはあるが、非常に詳細に説明があるので内容がわからないということはない。画期的な論文と言えるんじゃないだろうか。

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