校長の力
学校が変わらない理由、変わる秘訣
工藤勇一著
中公新書ラクレ
当事者意識と民主的手法……これに尽きる
『学校の「当たり前」をやめた。』の工藤勇一の著書。
内容は、これまでの著書と重なるところが多く、前半では、生徒を自律的な存在にするための方法や、教員同士の対立を解消し1つの目的に従った集団にしていくノウハウ、つまり学校を民主化する方法が紹介されている。
後半部分がこれまでの著書と異なる新しい記述で、学校の校長の権限が大きいことに加え、教育委員会、PTAや保護者との関係性などについて書かれている。中学校に対してどの機関が責任を負っているか(設置権は区や市の教育委員会、人事は都道府県の教育委員会、予算は国と都道府県というややこしい構図になっているらしい)や、校長の任用制度などがわかりやすく紹介され、校長に学校の教育課程を決定する権限があるため、思い切った改革もやろうと思えばできるのだと説く(一方で任期が短すぎるという難点もあるらしい)。
保護者に対しても、一緒に子どもを育てていく当事者という立場を学校側が取ることで互いに協力していくようにすることが重要という。同時に保護者側に対しても、(サービス受給者という立場ではなく)当事者意識を持って、一緒に子どもを育てるのだという意識を共有してもらうようにするらしい。つまり、生徒を含むすべての関係者が、当事者意識を持った上で自らの決定に積極的に関わるようにしてもらうというのが、万事に対する著者のアプローチなのである。そのために「誰一人取りこぼさない」という決定プロセスを徹底し、そのために皆で話し合っていくという民主的手法を徹底的に推進していくことが肝要ということなのである。
こういう考え方は、民間企業を含むあらゆる集団で採用できるアプローチであり、こういう手法を採用することで、結果的に当事者たちの意識や作業効率、環境が大幅に改善して良い結果がもたらされるのではないかと思う。現実的にはこういうアプローチを取る集団がほぼないというのが実情であるが。
著者が本書で主張する議論にはいろいろと得るところが多く、感心することも多いのだが、本書には不要と思われるような箇所もままあって、少し退屈した箇所もあった。また必ずしも同意できない部分もあるが、著者の主張する「民主主義には対立が必然」という考え方を前提にすれば、それもまた当然ということになる。『学校の「当たり前」をやめた。』ほどのインパクトはないにしても、総じて十分に読ませる内容だったと言える。
追記:
先日、現在の麹町中学校(工藤校長がかつて大胆な改革を行った中学校)が、指導方針を大幅に転換しており、保護者や子どもの意見を聞かない独善的な決定を次々に行っているというニュースを聞いた。何でも、ダンス部でヒップホップを禁止したとか新しい制服を強制したとか、現校長と保護者・子どもとの間で対立が起こっているらしい。工藤校長が実現した(定期テストを省いた)単元テストや全員担任制もなくされたという。何でも現校長が反動的な制度改革を行い、それまで築かれてきた民主的な方針がことごとく反故にされているとのことだ。どこの世界にも視野の狭い反動的な人間がいて、そういう人間が権力を握ってしまうと独善的な政策を敷いてしまうものであるが、教育の現場にもそういう人間がいたというわけだ。同時に図らずも「校長の力」の大きさが示される結果になったしまった。何とも皮肉な話である。