人麿の運命
古田武彦著
原書房
文学も正しい歴史観が前提になるのは必然
古代史に新解釈をもたらした歴史学者、古田武彦が、『万葉集』を多元史観からの視点で解読してみせる書。
『万葉集』は、言わずと知れた日本最古の歌集とされているが、実は、同書の巻七の「一二四六」の歌の後に「右件謌者古集中出」という記述があって、「古集」の存在が示唆されている。つまり著者の解釈によると、現在の『万葉集』以前に古『万葉集』があって、そこから近畿王朝の歴史観(つまり近畿王朝こそが古代からの唯一絶対の王朝とする一元史観)にそぐわない歌がカットされた上で、現『万葉集』の元ができたのだという。
確かに現『万葉集』では、白村江の戦い関連の防人歌がない他、九州周辺の歌人の歌がないなど、それを裏付けるような事実もある。また、多元史観に基づくアプローチをすると、それまで特に面白味を感じなかったような歌がいきなり活き活きとしてくるという事例が、本書でも紹介されていて、この新解釈にはそれなりの説得力がある。
中でも、『万葉集』最大の柿本人麿に紙幅が割かれており、著者の解釈では、人麿は元々近畿王朝(天武、持統朝)の宮廷御用歌人として仕事をしていたが、九州王朝(つまりこれが『万葉集』の歌に頻出する「遠の朝廷」とするわけだが)関連の和歌、つまり王朝の崩壊を悼む挽歌を遠慮せずに詠んでいたことから、近畿王朝から不興を買い、晩年出雲に流されたのではないかとする。そして終焉の地「鴨山」(「鴨山の岩根し枕けるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ」の歌に出てくる地名。現在の島根県浜田市の浜田城であると著者は本書で特定している)で水害に遭って死んだ、という推定までしている。これについては決定的な物証と言えるものはほとんどないが、説得力はある。少なくとも斉藤茂吉(『鴨山考』)や梅原猛(『水底の歌』)らの人麿終焉地推定論(どちらも本書で紹介されている)より論理的である。
『万葉集』という「文学作品」を新しい歴史観で繙こうというアプローチは斬新で、確かに文学であっても背景となる歴史が前提になるのは当然で、歪められた歴史を前提にしていると、文学作品(ここでは和歌だが)の真の解釈、真の価値はわかるわけがないのである。以前、『古代史で楽しむ万葉集』という本を買って少しだけ読んだが、ありきたりの歴史観に裏打ちされたものだったため、解釈も面白くなければ和歌もつまらないという感想を持ったのだった。『万葉集』にわかりづらい歌が多いのも、一つには間違った歴史観が前提であるからかも知れない。とにかく本書を読むと、『万葉集』の、少なくとも(ここで紹介されている)いくつかの歌が実にビビッドに見えるようになるのだから不思議である。
前に読んだのは1994年の出版時で、そのときはあまり感じるところがなかったが、今読むと、あまりに斬新な解釈に感心する。ただし全体的に試論レベルで終始していることから、前に読んだときはインパクトが小さかったのではないかと思う。試論レベルに終始しているのは、決定的な証拠がどこにも存在しないためである。決定的な遺物がどこかから出てきて、多元史観や九州王朝説が広く受け入れられるようになると、別の切り口からの『万葉集』解釈も進み、その魅力もより一層増してくるのかも知れない。古『万葉集』がどこかから出てきたりしたら、日本の古代史界、古典文学界にコペルニクス的転回が起こるのは必定だろうが。