大江戸泉光院旅日記

石川英輔著
講談社文庫

江戸社会の実情が垣間見える

 江戸時代、日向ひゅうが佐土原さどわら藩に野田泉光院せんこういんという修験僧がおり、この方、真言宗当山派の安宮寺あんぐうじという寺の住職で、同時に武家待遇で藩に仕えており武芸にも秀でていたそうである。その泉光院が隠居し職を息子に譲った上で、かねてからの念願であった全国行脚の旅に出る。基本的には金子を持たずに托鉢しながら移動するというもので、あるいは善根宿に泊まったりたまに宿泊施設に泊まったりもするが、ほとんどは地域住民の家に泊めてもらうという旅である。当時、諸国を行脚する修行者や遍路など(回国者というらしい)がいたようで、この野田泉光院もそれにあたる。

 泉光院の旅の目的は全国の9つの霊峰(英彦山、羽黒山、湯殿山、富士山、金剛山、熊野山、大峰山、箕面山、石鎚山)に登り参拝するというもので、この旅も修行の一環と捉えていたようである。その回国の模様を泉光院自身が細かく書き綴ったのが『日本九峰修行日記』という書で、旅の様子が事細かに記述されていることから、旅の行程はもちろん、当時の庶民の生活などまでよくわかるようになっている。

 実はこの日記、永らく失われていたが、昭和9年に限定部数で復刻され、世間の耳目に触れることになったといういきさつがある。本書は、その『日本九峰修行日記』の記述を元にして泉光院の旅を再現するという意図で書かれた本で、日付を追いながらどこの誰の家に泊まって何をしたかなどがダイジェストの形で書かれている。他人の日記を読むのはともすれば退屈な作業であるため、こうやってダイジェストにまとめてもらうと大いに助かるというものである。なにしろこの旅、6年間の長きに渡っているのである(文化9年〈1812年〉から文政元年〈1818年〉)。そのため文庫本でも日記の再録の部分は400ページ近くに及んでいる。なおこの『日本九峰修行日記』は、本書の著者、石川英輔にとっては江戸再発見のきっかけになった書らしく、これがその後の「大江戸」シリーズに結びつくことになる。

 泉光院の回国の旅は、斎藤平四郎という供を連れてのもので、諸国で銭や米の喜捨を求めて歩く乞食こつじき旅である。先ほども述べたが住民の家に泊めてもらうというのが基本線であり、泉光院はそれなりに身分が高く教養もある人だったが、あくまでも貧乏旅行なのである。ただ実際に方々で住民(多くは農民)が宿を提供してくれたため、6年の間野宿は一度もない。気に入られて何十日も逗留するということまであるし、場合によっては地域の人々が集まって論語などの講義をするようせがまれたり(実際に行っている)、俳句を送り合ったりということまで行われている。当然、祈祷を頼まれることもたびたびある。

 この本でもっとも興味深いのはこういう部分であり、著者の石川英輔も書いているが、どこでも泊めてくれる家がある(中にはかなり貧しい家さえある)だけでなく、農村であっても住民にかなりの教養があるということがわかるのである。偏見だらけの歴史観を通じてではなく、当時の地域社会の実際の有り様を当時の日記を通じて垣間見ることができる点が本書の最大の魅力ということになる。関所や番所についての記述も出てくるが、巷間言われているような、あるいは時代劇に出てくるような厳格な取り締まりの場面はごく一部に限られており、一般的にはほぼフリーパスである。またうるさい関所については裏道を脱けたりということも泉光院はしている。江戸社会の柔軟さというか面白さがこういうところにも現れていて興味深い。

 日記の記述をそのまま提供するというかなり地味な本で(日記だけに〉読むのに飽きることもあるが、しかしいろいろと驚きの発見もある。今回読むのは二回目だが、以前より得るところが大きかった。地味だが非常に良い本だと感じる。

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