日本文学史 近代・現代篇〈八〉

ドナルド・キーン著
中公文庫

知らない事実も多かったが
特に感じるところもなかった

 ドナルド・キーンの畢生の大作、『日本文学史』の近代・現代篇〈八〉である。『日本文学史 近代・現代篇』は〈六〉までが通年の散文の文学史で、〈七〉では俳句・短歌、〈八〉では近代詩、〈九〉では芝居や戯曲を扱っている。そのため、〈七〉から〈九〉は言ってみれば付録みたいなもので、別扱いであるため、〈六〉までのシリーズを読んでいる途中から、こちらに移っても不都合はない。『近代・現代篇』は今のところ〈四〉まで読んでいるところだが、前回の〈七〉に続いて、今回は〈八〉を読んだ。扱われているのは、先ほども書いたように日本近代詩の歴史である。

 日本の近代詩、つまり明治以降の詩は文語から口語へという大変動があり、大正期の萩原朔太郎あたりが口語使用の嚆矢になっているという知識はあった。しかし実際は朔太郎自身、(口語詩発表後も)文語詩を作っているなど、そこが明確な境目になったというわけではないらしい。やはり文語体の持つ荘重さは詩に合っていると言え、口語体の持つ軽薄さは時に詩を気恥ずかしいものにしてしまう。僕は高村光太郎の詩があまり好きではないが、その要因は「軽薄な気恥ずかしさ」にある。これは口語体の詩でしばしば感じられるもので、妙にかっこつけた文体に僕自身は嫌悪感を持つ。そのために三好達治などの近代詩は学校教科書で触れていたものの、あまり好きではなかった。

 本書では明治初期の詩から戦後の詩までが通年的に紹介され、明治期の島崎藤村、土井晩翠、薄田泣菫、上田敏、蒲原有明、北原白秋、三木露風、大正期の萩原朔太郎、室生犀星、山村暮鳥、宮沢賢治、昭和期の高村光太郎、三好達治、西脇順三郎らが1つの章を当てて紹介される。現在比較的人気のある中原中也は、「昭和初期の詩」の章で扱われる程度で、比較的軽い扱いになっていて、著者自身の評価もあまり高くないようである。著者が大いに評価している昭和期の詩人は西脇順三郎で、僕自身は西脇のことをまったく知らなかったため、特に感慨が湧かなかった。随時紹介されている西脇の詩についても感じるところは特にない。西脇以外の詩についても概ねこんな感じの印象で、正直あまり得るところはなかったと思う。

 北原白秋と三木露風は僕にとって童謡の人であり、上田敏は翻訳詩の人、宮沢賢治、高村光太郎、三好達治は、僕にとって、先ほども言ったような口語詩の恥ずかしさが伴う作家である。そういうわけで、彼らの詩に対する思い入れは、僕にはあまりない。その結果、本書は、僕にとってあまり面白さを感じる本ではなくなったのだった。『日本文学史 近世篇〈三〉』のときに感じたような、日本文学史の中でそれほど重要ではないが、『日本文学史』シリーズを完結させる上で省くことができない要素、つまり「補足」的なものだろうというような印象になる。不要だとは思わないが、読んで面白いと感じる要素はきわめて少なかった。

-文学-
本の紹介『日本文学史 近代・現代篇〈一〉』
-文学-
本の紹介『日本文学史 近代・現代篇〈二〉』
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本の紹介『日本文学史 近代・現代篇〈三〉』
-文学-
本の紹介『日本文学史 近代・現代篇〈四〉』
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本の紹介『日本文学史 近代・現代篇〈七〉』
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本の紹介『日本文学史 近世篇〈一〉』
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本の紹介『日本文学史 近世篇〈二〉』
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本の紹介『日本文学史 近世篇〈三〉』
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本の紹介『百代の過客』
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本の紹介『百代の過客〈続〉』
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